60 焼打ち

「港内の船々を焼き払う」と言う脅迫文に図書頭が立腹して奥へ行き、上條徳右衛門が戻ってくるまでの長く激しいやり取りを「崎陽日録」27pは次の様に伝える。
『図書頭奥に被入申さるゝは異人共緩怠也望之品を於不遣は湊中の船中共焼拂んと申送る餘りに法外なる申分なれば望の品々遣はすに及はず是より先を駆けて焼打すへし』
図書頭の凄まじい怒りを再現した名文であるが、現代語にすれば「図書頭が奥に入って言われたのは、異国人たちが(入港禁止の)港へ入り込んで来たのは「緩怠」不埒・無法なことである。要求している品物を送らなければ、港に停泊している船をすべて焼き払うと言ってきた。あまりにも法外な要求なので、望んでいる品々を送る必要はない。このまま先手を打って焼き討ちにすべきである。」

これは図書頭のこれまでの行動の中で際立つ決断である。これまで図書頭はオランダ人を「御国の預かり人」としてその身柄の安全を一義としてドゥーフの意見などを受け入れながら異国船の要求に応じて補給を許可するなどしてきた。

『異国船よりかひたんえ以書簡申越候は望之品々今晩迄に不相遂に於ては湊内船焼拂う可申段申越之不埒至極之義付品々是より先を駆焼打候打可致候其爲図書頭にも御番所え可致出張候間急キ其用意致し未人數參着無之候はヽ佐賀蔵屋數並第前水浦屋數に有合之人數引連両人とも龍出候様急度被申達候處傳之允答て焼打之手段深堀より返答不申越候間暫く猶予致し候様にと申次の間へ引て用人徳右衛門へ右同様の趣申聞傳之允久七のみにて再應同様之答も恐入候付帰宅之上重役の者へ猶又申聞へしとて退散す』

だが図に乗って港内の船々を焼き払うと脅迫してきたことは、長崎奉行のみならず日本を統治する御公儀すなわち幕府への挑戦である。その脅迫に屈することなど武家政権にはもっての他である。武家/武士にとって名誉は命を懸けても守るべきものである。それが侮辱された以上はオランダ人の安全を第一義に行動しては、武士の大儀に悖る(もとる)ことになる。まずは武力でもってその思い上がりを正し膺懲(ようちょう)しなければならぬ、これが図書頭の心中であったろう。
図書頭はすぐに佐賀聞役関傳之允筑前花房久七の両名を呼出したが、一方で出動体制の準備を命じた。佐賀藩や福岡藩の現有勢力と共に、図書頭の家来衆、中村継次郎人見藤左衛門等の岩原目付屋敷勢、手付出役(与力同心)の幕府派遣勢、お役所付諸役人(町人)らの出動体制を整えようとの命令である。これに応じて手勢行軍の行列書が完成して図書頭に届けられると、上条徳右衛門がこれを受け取り諸物頭(各役職の頭)に図面を添えて配置を決めた。さらに奉行出陣のための海陸の備え・旗・長柄・鐘・太鼓・行列奉行の采配によって、玄関から広間にかけて間を空けることなく整然と並び立てられた。さらに勝手頭取(今で言えば司厨長)の佐久に、兵糧の準備を命じた、とある(通航一蘭427p) 。この時、思いがけぬ出来事があった。高橋忠左衛門という図書頭家来の必死の諫言である。図書頭の用人は木部幸八郎とこの高橋忠左衛門が私の調査では確認されている(家来には用人と給人があり、用人が給人より格が高い)から、図書頭家来No.2という立場になる。この高橋が(同じく「通航一覧」427pによる。この部分は用部屋日記の記述であろう)、

『高橋忠左衛門が申し上げたところによると、「殿様のご出陣について諫言申し上げるべき旨、お申し付けを承ったので、まず自分の口から諫め申し上げました」とのこと。するとその人(=殿様)は涙をこぼし、「留守宅にいる老母がどれほど心配するか」との理由にて諫めを受け入れられたとのこと。それ(母親のこと)は心得ているので、あらためて言う(諫言の)必要はないとのご返答であった、と彼(高橋忠左衛門)は申し上げております。』

これは注目すべき記録である。これが小説だったら「図書頭ほどの武人が母親のことを心配する諫言を受けて中止するはずがない」と批判されるだろう。だが、事実によってこのように我々の浅薄な知恵や判断を超えた展開があることを知らされる。これもまた図書頭の人間的な横顔が浮き彫りになるエピソードである。

もう一つの注目すべき点は、前述の文章の「殿様のご出陣について諫言申し上げるべき旨、お申し付けを承った」という箇所である。このお申し付けを承らせたのは誰か?それは上條徳右衛門としか考えられない。長崎奉行と言う重職にある責任感から攻撃に打って出ようと言う図書頭を冷静に見ていた上條徳衛門にはこのような自殺的攻撃はやるべきではないと言う理性的判断があったのだろう。そして上條は奉行所No.2(図書頭の家来ではなく幕臣の可能性が高い)としての自分が諫言するよりは、本来の家来である高橋から老母のことを理由に諫言させた方がより効果的だと考えて高橋を動かしたのではないだろうか? 佐賀聞役関傳之允筑前花房久七の二人がおっとり刀で駆け付けた時には上記の出陣準備の最中であったろうか、奉行所内は殺気だった異様な雰囲気であったろう。図書頭は二人を書院に呼んで直々に命じた。その内容は以下のとおりである(「崎陽日録」27p)。

これを現代語にすれば「異国船から船長が書簡で申し越してきたのは、要求する品々を今晩までに届けなければ港内の船を焼き払うと申してきた。この不埒至極の件について、これより先に焼き討ちを行うべきである。そのため図書頭も番所へ出動するので、急いでその用意をし、まだ人数が到着していないなら佐賀蔵屋敷ならびに前の水浦屋敷にいる人数を引き連れて両人とも出るように厳重に申し伝えたところ、傳之允が答えて、焼き討ちの手段について深堀から返答が来ていないので、しばらく猶予してほしいと申し上げ、次の間へ引いて用人徳右衛門へ同様の趣を話した。傳之允と久七だけで再度同様の返答をするのは恐れ多いため、帰宅の上、重役の者へさらに申し聞かせるとして退散した」となる。
遂に図書頭はたとえ寡兵(兵力が少ないことを言う)であっても、有り合わせの兵力で異国船を攻撃し焼き打ちすることを決断し、佐賀藩福岡藩においては長崎にいる全員が戦(いくさ)支度を整え、聞役二人も軍勢の先頭に立ち出陣せよ、と命じたのだ。
だが佐賀藩の支藩である深堀藩に対応すべてを丸投げしてきた関傳之允は出陣の命に応えようとせず、深堀藩からの動きもないので「しばらくご猶予を」と戦(いくさ)支度を整えることもせず、いよいよ逃げ口上として重役を持ち出してきたのである。
この重役とは誰なのか?

実はどうしたことなのか、あらゆる資料においてこの「重役」についての記述は恐ろしく少ない。通航一覧には2か所で触れているだけである。

ひとつは通航一覧453pに「文化五年或伝、此時長崎詰の家老は第 十八歳に相成よし、右の者一人は、殊の外骨を折氣を揉しかも、番頭両人甚不始末、依之右家老は押込、番頭両人は切腹被申付由」すなわち「この時、長崎詰の家老は十八歳になったばかりであった。この家老は特に苦労し、心を砕いて事に当たっていたが、番頭の二人は非常に不始末な振る舞いをした。このため、この家老には押込(閉居)の処分が命じられ、番頭の二人には切腹が申し付けられたという」。つまり18歳の重役は真摯に事態解決に心を砕いたが番頭二人(一人は関傳之允であろう)が愚かで、この重役は押込と言う処分になったというのだ。押込とは自宅などの特定の場所に閉じ込められ、一定期間外出を禁止される処分だが社会的制裁としての側面も強く、閉居を命じられることは恥とされていた。だが番頭二人の切腹に比べれば恐ろしく処分が甘い。この18歳の重役があまり記録に残らず(上記の「文化五年或伝」とは民間の記録であり、公式文書ではない)また責任も問われなかったのは藩主に連なる係累ではなかったのだろうか。非常に気を揉んだと言うが、彼の責任を回避するいろんな工作が行われて彼自身に処罰がならなかったのではないかと思われる。しかしフリートウッド・ペリューもこの時18歳10ヵ月である。同じ18歳ながらフリートウッドの行動力と快男児ぶりが際立って見える。

関傳之允が佐賀藩屋敷に戻り、重役に何を相談したかは一切記録残っていない。これは想像だが、弱冠18歳の重役(あらゆる記録に名前は見当たらない)にとっても懊悩が募るばかりで名案があった筈がない。奉行の要求に応えられる兵力が存在しないからだ。

結局小藩(実質は佐賀藩支藩)ながら長崎に隣り合わせの深堀藩に頼るしか手が無かった。深堀藩については次の章でもう少し詳しく紹介する。