59 水船システム

当時の水樽は4斗樽(72リットル)が一般的であった。サイズは直径55センチ、高さ70センチである。酒用や醬油用に5斗樽6斗樽1石樽2石樽もあったが、船上での取り回しのため廻船用には4斗樽が用いられた。千石船で乗組員の飲料水として30樽ほどを積んだが、その廻船へ水を運ぶのは水荷船と呼ばれたと言う。

長崎は当時重要な物流の拠点であったから、水補給のシステムは長崎奉行の管理下で整備され、水値段も長崎会所(奉行所の監督下にある貿易実務執行機関であり、年寄りたち長崎特権商人層が運営に携わった組織)の運営で定められていた。

長崎港に停泊する外国船(特にオランダ船・中国船)への給水に加え、人口島である出島唐人屋敷への生活用水の供給も担当するシステムが必要であったからだ。
1673年に倉田次郎右衛門が私費で創設した倉田水樋により中島川の水を利用して、木樋や石樋を用いて36町に水を供給したが、水船もこれを取水源にしたのだろう。
長崎の水船は比較的小型の平底和船を使用したというから、それほど多くの4斗樽を詰めたとも思われない。水船1艘で10樽ほどを運んだのではないだろうか。

彼らの水の補給は8月の最終週にマカオで行ったのが最後である。珠江デルタの濁った河口付近の井戸水が清涼とは思えない。そこで補給された水樽合計70トンは8月9月の酷暑の中、最下層の船底にあった。水には細菌や藻が繁殖し、変色したり異臭が漂うこともあっただろうから飲んでうまい筈が無い。
衛生状態も良かったとはとても言えない。既にマドラス出航依頼している人の死者が出ているが、今も船中に病人がいるからだ。シキンムルに書かせた艦長フリートウッド・ペリューの2回目の手紙に「船長は、病人たちがいるので、牛または山羊いく頭かを要求しており、それがなければ閣下〔船長〕は出発することができない。」(「長崎オランダ商館日記四203p)」と、牛や山羊の要求をしている。

のちに補給された水を見た艦長フリートウッド・ペリューはその報告書で

『水はとても清潔な大樽に容れられて運ばれてきた。それらは彼等のボートの中ほどに据えられ、1 バットより多くの水がはいっていた。』と記録している。1バットは18リットルだから、4斗樽より小さい樽(3斗2斗1斗樽)だった可能性もある。
この水樽を貰ったフェートン号の乗組員の反応は記録に残ってないが、その新鮮さとおいしさに舌鼓を打ったのは間違いない。
図書頭の意図はまんまと当たったと言っても良いだろう。水の要求量がこの後エスカレートしたからだ。この後の章で展開されることになるが、8月16日に水5艘、続いて17日朝に同じく水3艘を受領している(日本側の記録では水5艘)。
佐賀藩の常駐しているべき千人の兵力が不在のいま、図書頭にとっては近在の大村藩諫早藩福岡藩からの援兵が到着するまで、何とか時間稼ぎをする必要があった。
図書頭は捕らわれたオランダ人の安全のために補給はするが初回の水の量を少なくした意図は十分効果があったと言って良い。この後長崎を出航したフェートン号は追い風に乗ってわずか5日でマカオに着いているから17日朝の水補給は必ずしも必要では無かったとも言えるのだ。長崎で補給した新鮮な水のうまさが出航を1日先になった可能性は十分ある。
そして大村藩の到着はフェートン号出航(正午)後の午後、福岡藩の到着はその翌日であった。
水の補給はフェートン号事件のもう一つのドラマでもあったのだ。